空海が開祖となったと言われる古刹「修禅寺」を中心に開けた修善寺の温泉街は、伊豆最古の温泉とも言われ、落ち着いた雰囲気の大人の温泉街でもあります。そこからほど近い場所に中伊豆ワイナリーはあります。ワインを軸にしたリゾート型ワイナリーができるまでにはどんな事があったのかをご紹介します。
中伊豆ワイナリーができたのは「ふるさとへの恩返し」がきっかけ
いにしえの昔から湯治場として知られてきた修善寺の温泉街からほど近い場所に中伊豆ワイナリーはあります。ワイナリーの創業者である志太勤氏は、日本屈指の給食産業企業である「シダックス株式会社」を一代で成した人物。
その生まれ故郷がここ中伊豆の韮山という地域でした。
志太氏が幼い頃住んでいた生家にはぶどうが植えられ、それに子どもの頃から興味を持っていたことや、なによりも志太氏がワイン好きで、とりわけカリフォルニアワインの愛好家だったのです。
そして、あるとき仕事でカリフォルニアを訪れた志太氏は、ナパ・ヴァレーのワイナリーを訪れて衝撃を受けます。カリフォルニアのナパ・ヴァレーはいくつものワイナリーが軒を連ね、さながらワインのテーマパークのような様相を呈しています。誰もが気軽にワインを飲みながらピクニックを楽しんだり、ワイナリーを巡ったりしているのです。
「こういうワイナリーをふるさとに造ることで、生まれ故郷に恩返しができたら」
志太氏は自らが生まれ育った中伊豆に、ワイナリーを造ることで地元に雇用を生み、産業を作る「恩返し」をすることを決意したのです。1985年、今から40年近く前のことでした。
中伊豆でぶどう栽培は無理だと、誰もに反対されたワイナリー建設
中伊豆にワイナリーを作ろうと決め、1987年から三島市で2aほどの畑を拓き、ぶどうの試験栽培を行う傍ら、中伊豆でぶどう栽培の適地を探し、志太氏は多くの識者に意見を聞きました。
しかし、誰もが「あんなに暑くて雨の多いところでいいぶどうができるわけがない」と中伊豆でのワイナリー建設に反対したといいます。
しかし、志太氏は挫けませんでした。
ぶどう栽培のアドバイザーに、当時マンズワイン勝沼ワイナリーの工場長を務めていた木下研二氏と志村富男氏に白羽の矢を立て、伊豆の地をあちこち見てもらったのです。そして、最終的に見つかったのが現在ワイナリーのぶどう畑がある場所です。
標高は300メートルと、伊豆の中では冷涼な土地であり、西北斜面の土地は約20ヘクタールと、1枚の畑としてはかなり大きな規模となります。
この中伊豆の畑は確かに年間降水量は多いのですが、それは時々どかっと雨が降るからで、常時多湿なわけではなく、日夜の気温差も沿岸部よりも大きい、いわば伊豆の中ではぶどうを生産するための「適地」でした。
平均気温は山梨県の勝沼に比べると少し低めで、土壌は関東ローム層が風化したものに、粘土層が若干含まれています。
この土地はもともと、中伊豆で盛んだった絹織物のための養蚕に使う桑畑でした。
今でも畑にはその当時の名残があり、畑の中央にある建物は養蚕のために建てられたものでした。現在はぶどう栽培のスタッフのために使われています。
志太氏はこの土地にその命運をかけてみることにしたのです。
中伊豆ワイナリーでの本格的なぶどう栽培
ワイナリーが発足し、本格的にぶどうが植え付けられるようになったのは1993年のことです。
このとき植樹したのが、当時交配品種として流行していた信濃リースリングとシャルドネ、赤品種はカベルネ・ソーヴィニヨンとメルロー、そしてこちらも交配されたばかりのヤマソーヴィニヨンでした。
ワイナリーには最新の設備が揃い、温度管理のできるステンレスタンクや、当時はまだ珍しかったスクリューキャップの瓶詰機、そして樽をゆったりと配置できる地下セラーを準備しました。
最初のうちは思うようにぶどう栽培ができず、苦労をした日々もありましたが、試行錯誤を重ねながら、現在ではプティ・ヴェルドをはじめとしたしっかりとした飲み心地と、料理とのマリアージュを想像するとわくわくするようなワインができるようになりました。
しかし、中伊豆ワイナリーの知名度はまだまだ低く、これからもっと多くの人に知ってもらい、ワインのおいしさを確かめてもらうために、スタッフたちの研鑽は続きます。
日本でも関東近県では2つとない、広大なぶどう畑にそびえ立つシャトーのある景観は、海外旅行に訪れたかのような気分にさせてくれます。ぜひ中伊豆の地で生まれるワインを味わい、ワイナリーでのひとときを楽しんでください。